■これが始まり


 「これはこれは、パットン皇子。ご機嫌麗しゅう」
 「………………」
 たった今物凄く悪くなった、という表情をパットンは隠さなかった。それを正面から見た相手も、特に気にした様子もなく、似非臭い貼り付けたような笑顔で立っていた。
 体が大きく、筋骨隆々とした者が多いヘルマンにおいて、他国の男性よりは背丈はあれどヘルマンの中ではさほどでもなく、何より女と同じくらい白い肌を持つ、文官風の男。
 ステッセル・ロマノフ。パットンはこの男が出会った時から気に食わなかった。


 自分よりも少しだけ年上というにもかかわらず、その頭脳で若くして文官たちの中でも頭角を現すようになりつつある。まだ少年といってもいい年齢だ。
 人材としては非常に優秀だけれども、それは国全体や皇帝のための能力である。幼いパットンからしてみれば、その能力よりも、相手の性格や態度の方が気になった。

 とにかく、厭味。これにつきる。

 パットンは皇子で、第一王位継承者で、相手は優秀と言えどただの文官にしかすぎない。だがしかし、ステッセルはパットンに絡むことが多かった。顔を合わせる機会はそれほどないのだが、会えば何かしら言ってくる。それが歳が近いことからの親しみを込めたものではなく、上辺は気さくでありながら、中身は黒い。10を過ぎたばかりのパットンでもそれは肌で感じ取れた。
 パットンは幼い頃から『庶子』という生まれに反感を持つ者たちの中で育ってきたため、ある程度、人を見る目は育っていた。ステッセルは、どういう考えがあるにしろ、パットンに反感を持つ者たちと同じ空気を感じる。
 「いつも一緒にいるご友人はどうなされましたか?」
 「……ヒューは稽古をしている。俺もこれから行くところだ」
 口調は至って穏やかなのに、嫌な感じは消えない。パットンは眉間に皺を寄せたまま、答える。
 「流石はトーマ将軍のご子息。将来はトーマ将軍のような立派な武将になるのでしょう。先が楽しみですね」
 最近ヒューバートは父親のトーマに少し反抗的だった。あまりにも父親が立派で、周りからステッセルが言ったようなことを幾度も聞かされ、次第に反発心が芽生えてきている。
 それを知ってか知らずか、ステッセルはしゃあしゃあと言う。わざとか?とパットンは疑った。
 「しかし、ご友人の剣の腕は歳からいって見事なものですが、皇子の方は如何なのですか?」
 きた。
 パットンは露骨に顔をしかめた。
 「皇子は将来、皇帝の跡を継ぎ、この国に立つお方。ヘルマンの皇帝はまず武勇に優れた者。それが臣下に守られるほど剣の腕が立たないようでは話にもなりませんものね」
 「……………っ!」
 手を握り締めた。それは、暗に『弱い』と言われているようなものだった。
 パットンはまだ幼い。これから伸びる可能性もある。だが、同じ歳のヒューバートは、すでにめきめきと剣の腕を上達させている。それが少し、今のパットンには負い目だった。どうして自分はうまくならないのだろうと、情けなく思う。
 「まぁ、トーマ将軍の師事を仰いでおられるのですから、焦らずともお強くなるでしょう、きっと」
 心の中を読んだかのように、ステッセルは笑顔で言う。腹立たしく思い、奥歯を噛み締めるが、パットンは耐えた。普段から、育ての親であり乳母であり姉であるハンティに注意されていたからだ。
 「話はそれだけか。ヒューを待たせてあるから、俺は行くぞ」
 睨むように胸を張り、パットンはステッセルに背を向けようとした。
 「お強くなられませんと、立つ瀬がありませんものね、あのカラー殿も」
 「っ!」
 振り返る。にやりとステッセルが笑った。
 「幼くして母親を失われた貴方様を、立派な皇帝にしようと育ててこられた。けれども武勇のない者では、いくらあのカラー殿が愛情を注がれようと、皇帝や民が認めますまい」
 「何が言いたいんだ、ステッセル」
 上から見下ろす視線にパットンは一歩踏み込んで真正面から捉える。二人の様子にただならぬものを感じて、遠巻きながら人が集まりつつあった。パットンはそれに気がついていない。ステッセルはむしろ、それをあおっているようにも見えた。
 「いやいや、ちょっとした噂を耳にしましてね?」
 「噂?」
 もったいぶったように言う態度に、パットンは苛立つ。ステッセルはそんなパットンを見ながら、わざとらしく自分の胸に手を当てた。
 「そう、カラー殿が実は、己がこの国を牛耳るため、貴方様の母君を手にかけ、貴方様を手中に収めたと」
 「──────!!!!」
 ばちん、と何かがパットンの中で外れた。むしろ、弾けた。次の瞬間にはパットンはステッセルの胸倉に掴みかかっていた。身の丈はステッセルの方が高いが、力では幼くともパットンの方が上だった。しかし、ステッセルは余裕を含めた笑みを消そうとはしない。轟然と、顎を上げるほどだった。
 周りはパットンの行動ににわかに浮き足立ち、騒がしくなってきていた。人が増える。
 「貴様!! 何の根拠があってそんなことを言う!!」
 「だから噂と申しましたでしょう。私はそれを述べたまでです。しかし、考えてもみてください。黒髪のカラーと言えば伝説のカラー。その力は人間では到底到達できないレベル。その気になれば世を治めることも不可能ではないのでしょう。だと言うのに、彼女はその力を活かさず一議員に甘んじている。あまりにも不自然とは思いませんか」
 「思わん!! ハンティは母上の親友だったんだ!! 母上に俺を頼まれて、ハンティは俺を育ててくれたんだ!! ありもしない野心のためなんかじゃない!!」
 胸倉を掴んだまま、パットンは声を荒げる。周りは騒がしく、人によっては二人の会話など聞こえないだろう。傍から見ると、にこやかに話していたのに突然パットンがステッセルに掴みかかったとしか見えない。
 「どうでしょう。何百年も生きているのですから、人を騙すなど雑作もないことでしょう。親友と言うのも、本当かどうか」
 「きっ……さまぁ!!!!」
 パットンが拳を振り上げる。ステッセルは流石に眉を寄せたが笑みは消していなかった。だが、振り上げたパットンの拳は、ステッセルの顔に繰り出されることはなかった。
 「やめよ、パットン皇子」
 「…………っ、レリューコフ!!」
 腕を押さえていたのは見事な体躯を持った、ヘルマン第一軍将軍のレリューコフだった。
 「落ち着きなさい、皇子ともあろう方が暴力を振るうのですか」
 「離せ、レリューコフ! こいつは、ハンティと母上を侮辱したんだぞ!!」
 「侮辱? 可能性を言ったまでですよ」
 平然とした態度だった。パットンを抑えるレリューコフも鼻につく姿だった。
 「……皇子、だからと言って暴力はいけません。他の者も見ておるのですぞ。……このままその拳をおろされては、やつめの思う壷です」
 後半はパットンにしか聞こえないほどのささやきだった。しかしそれは、パットンを抑える。歯噛みをし、怒りに熱くなる頭を冷やそうと、ステッセルから視線を外し、手を離した。
 「────実際、皇子の母君は謎の死を遂げている。確かに体の強い方ではなかったと聞きますが、病死にしては不自然だったのでしょう?」
 「だから、どうした」
 ステッセルの言わんとしていること。それは。
 「ええ、ですから、あくまで私の、ただの想像です。貴方の母君は親友であるカラー殿の手によって────」
 再び、今度はそれこそ間髪入れずに拳が飛び出した。
 「皇子!!!」
 だが、レリューコフの方が早かった。寸前でパットンの体を押さえ込む。ぶわ、と勢いでステッセルの髪がはためいた。
 「離せ、離せ! レリューコフ!!」
 「なりません! お怒りはごもっともですが、手を出してはなりません!! 皇子がこやつを殴ればそれは、皇子だけではなくハンティ殿の立場も悪くなる! 非がやつめにあろうと、手を出してはなりません!!」
 「ぐっ……く、っそぉおおおおっ!!」
 怒りと悔しさを声に出す。うなだれ、食い縛る。自分の大切な人たちが罵られたと言うのに、何もできない。パットンは歯痒くてたまらなかった。
 「……ふっ、レリューコフ将軍も余計なことを」
 「若造が、つけあがるなよ」
 パットンから数歩離れ、乱れた胸元を直しながらステッセルは片頬だけを上げて皮肉に笑う。レリューコフはじっと見据えるように睨みつける。それはパットンのあからさまな怒りよりも圧力があり、ステッセルは小さく息を飲むが、悟られないように髪をかきあげる仕草をした。
 「しょうがありません、皇子のご気分もすぐれないようですし、私はこれで退散いたしましょう。それではパットン皇子、失礼致します」
 「………………っ」
 「皇子、噂と言えどお気をつけなされますよう。気がついたとき、カラー殿の傀儡になってしまっては母君も浮かばれませんよ?」
 「────きさ……っ!!!」
 「皇子!」
 最後の追い打ちと言わんばかりの言葉に目の前が赤くなる。しかし肩に置かれたレリューコフの大きく厚い手が、強く自分を押さえた。
 「……っ、こ、の……っ!!!」
 殴りたい。殴って二人に謝らせたい。だが、手を出したらステッセルの策にはまる。ハンティも悲しむだろう。あの凛々しく厳しく、優しいカラーは、己が蔑まれたことよりも自分と母親のことで悲しむだろう。
 パットンは力として出せない怒りに飽和する。ステッセルに、何かをぶつけてやりたい。何か、何か、何か。
 「───────この……ッ!」
 大きく息を吸い込む。


「うらなりびょうたんしろしろ野郎───っ!!」


 「────────────」
 パットンは城中に響き渡るほどの大声で、腹の底から叫んだ。あまりの声の大きさと、その台詞に、一同は呆然としている。レリューコフの腕を振り払い、パットンは口を引き結んで走り去った。それ以上いたら、本当にステッセルを殴りそうだったからである。
 「………………」
 「………………」
 「………………」
 パットンが去った後、その周囲は静まり返っていた。だが、
 「………………うらなりびょうたん……」
 「しろしろ野郎……」
 誰かが呟いた。視線が、次第にステッセルに向く。当の言われたステッセルは、はっとそれに気がつき顔を引きつらせる。
 「………………くっ、はっはっはっはっはっは!!!」
 突然、レリューコフが豪快な笑い声を上げた。心の底からおかしいように、いっそ清々しい声だった。
 「何とも、実に的を射た表現ではないか、さすが皇子、くっくっく」
 「何が……っ!!」
 今度はステッセルが怒る番だった。レリューコフの笑い声と台詞に、周りの者たちも口々に繰り返して、くすくすと笑い出す。その様に、ステッセルはかぁっと赤面した。完璧で将来を有望視されているはずの己が、つたない子供に悪口をぶつけられ、しかもそれを笑われているのだ。
 「いやいや、怒るでないぞ。相手はまだ10を過ぎたばかりの子供だ。その子供が言った言葉に本気で怒っては、お前の名が廃ろう?」
 「………………っ、フン!」
 ステッセルは肩を怒らせ、大またでその場を立ち去る。レリューコフは笑いを収め、集まった者たちを持ち場へ戻るよう指示をした。
 その後、かなりの者があのパットンの叫びを聞いていたので、ステッセルの前では言えないあだ名がこっそりと広まっていった。








〜蛇足〜


 そしてそれは当然、ハンティの耳にも入る。
 「……まったく、アンタときたら……。いいかい、上に立つ者はね、下からそれこそ様々なことを言われるんだよ。それに一つ一つ腹を立ててたらもたないって言っているだろう? それを受け止めて、流せるくらいにならないと、皇帝は務まらないよ」
 「でも!」
 「でもじゃない」
 「………………」
 ハンティの前で正座をしてパットンはおとなしくしていたが、内心ふくれてもいた。ヒューバートと半ば憂さ晴らしのように稽古に励み、そのあとでのお説教だった。
 うつむいて、納得のいかない顔をしているパットンを見下ろし、ハンティは苦笑する。しゃがみ込んで、視線を合わせた。
 「けど、まぁ」
 青い髪に手をのせる。
 「……そんなに怒ってくれたのは、嬉しいよ。パットン」
 「…………だって、当たり前じゃないか」
 「それでもさ。有難うね」
 「………………」
 優しいハンティの笑みに、パットンは気恥ずかしくなってまたうつむいた。
 「しっかし、『うらなりびょうたんしろしろ野郎』って、うまいこと言ったもんだねぇ。ぴったりだ」
 「……いや、もうあん時は、無我夢中って言うか……とにかくアイツに何か言ってやりたかった気分でさ」
 「だけどそのせいでこれからますますヤツの風当たりが酷くなるよ。アタシのことが言われても、なるべく受け流せるようにしななきゃ」
 「うん」
 「よし」
 しっかりとうなずいたパットンの頭をハンティは掻き回すように撫ぜた。パットンは少ししてから、あんまり撫でるな、と嫌がるそぶりをするが、それをみてハンティはますます撫ぜた。


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アリストレスやレリューコフも使っている例の台詞の始まりはパットンつーことで。