■過ぎ去りし時・壱


 幾度か足を運んだことのある北の大地に、覇王丸は久しぶりに立った。季節は江戸より少し遅れた初夏。春の去る姿を追うようにここへやってきた。
 白髪の混じり始めている、無造作に流した髪を心地よい風がなびかせる。新緑の光る様を目を細めて覇王丸はながめて微笑んだ。
 『覇王丸さん』
 ぽ、と何かが現れるような小さな気配を感じる。その感覚は以前にも感じたことがあるもので、覇王丸は足元を見やった。
 「おう、ナコルルか」
 そこにいたのは北の地に住む民族と同じ衣装を着た、両手に乗るほどの小さな娘だった。




 『本当に来てくださるなんて、嬉しいです。覇王丸さん』
 「まぁ、ここにも随分と来てなかったしな。修行がてらの旅さ」
 ナコルルを肩に乗せ、さくさくと覇王丸は道を進む。
 『リムルルも喜びますよ。あの子、覇王丸さんのこと、好きですから』
 「そうかぁ?昔ここに来た時にゃ、結構な扱いを受けたけれどなぁ」
 氷の精霊を共にする、ナコルルの妹である少女を思い出す。諸事情で半ば封印されるように眠っていた少女は、初めて会ったときから二十数年と経った今でもあの時のままだ。
 昔、彼女等の家に少しばかり滞在した時があった。リムルルはのんびりと過ごす覇王丸に何だかんだと言って絡んできた。
 『あの子なりの好意の表し方ですよ。好きではない方とは、あまり話そうとはしませんから』
 「そうかい?だったら嬉しいねぇ」
 目尻に皺を刻みながら覇王丸は笑う。
 『………………』
 「ん?どうかしたか、ナコルル」
 不意に黙ったナコルルに、わずかに首を動かして見やる。
 『……いえ、何でもありません』
 にっこりと、花がほころぶようにナコルルは笑った。
 「……お前さんは何かあってもまず、人に頼ったり言ったりしねぇで、全部自分でやっちまおうってところがあるが、その姿になっても変わらねぇのかい?」
 『何ですか、それ。本当に何でもありません。……ただ』
 「ただ?」
 『覇王丸さん、お歳を召されたな、と、思って』
 「………………」
 視線を下に向け、ナコルルは自分の服を、小さな両手で軽く握った。
 『この姿になるのを望んだのは私です。それがどういうことなのかも分かってなったつもりです。親しい人たちを見送るのは、やっぱり哀しいけれど……でも私自身が決めたことです。だから、後悔はしていません』
 覇王丸は黙ってナコルルを載せたまま歩く。
 『けど、覇王丸さんは、確かに初めて出会ったときから、ずっとお歳を召されましたけど、本当の根底の部分は今も同じで、でも、当時のままというわけではなく、成長していらして。何て言うんでしょう、お歳を召されているのに、老いてしまった、とは感じられないんです』
 「……なんだぁ、そりゃ?」
 先ほどナコルルが言った言葉を、つい覇王丸も声に上げてしまう。
 「自分で言うのもなんだが、皺も白髪も増えてきちまってるけどなぁ。そのうち、和狆の師匠みたく髪がなくなっちまうかもしれねぇ」
 そうなったらちょっとどうしようと内心思わないでもないが、そうなったらなっただな、とも考えている。少し眉を寄せて困った顔で髪を撫で付ける覇王丸を見て、ナコルルはくすくすと笑った。
 『ええ、皺も白髪も増えてらっしゃいますけど。でも、老いた感じは受けないんです。何だか覇王丸さんは、今のままずっと最後まで、覇王丸さんのままでおられるんだろうなぁって』
 「………………」
 『それが何だか、不思議な気がして。時の過ぎ行く様を感じるのに、確かに変わらないものが、歩み続けているものがあるんです。逆に、私の方が年を取ってしまった気分にもなります』
 「……よくわからねぇが、まぁ、悪い気はしねぇか」
 『はい。あ、そうだ、覇王丸さん────』
 そこまで言いかけたとき、不意にぽつりと顔に何か当たった。
 「お?」
 『あ、雨……ですね』
 ぽつぽつと、少しずつ雨脚が速くなってくる。気がつけば、あっという間に土砂降りになってしまった。
 「うおおっ、いきなりかよ!」
 『覇王丸さん、あの木の下に行きましょう!』
 ナコルルに示された大きな、葉の生い茂った木の下へ覇王丸は急いで駆けていった。


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