▼こおりのきおく▼
       3



 灰色の空が、サトーの背中に重く圧し掛かっていた。本来ならば足を踏み出したその瞬間に、取り込まれ、飲み込まれてしまうであろう大雪は、踏みしめられ、じゃり、じゃり、っと僅かな音を響かせた。

 人の手が入らぬ豪雪地帯で、このような音がする筈が無い。サトーは自分の前を歩くヒロを見た。ヒロは何も言わずにただ歩みを進めている。だが、沈黙したままのヒロとは対照的に、その身体の近くからしゅ、しゅっと僅かな音が立てられていた。
 雪が、ヒロの身体に触れる間際で溶けているのである。
 溶けた雪は水となり、その下にある雪に触れて固まり、それをサトーが転ばぬようにゆっくりと、踏みしめて歩く。自然、二人の歩いたところから、一本の道が敷かれていた。その道は真っ直ぐと敷かれ、前を歩むものが目的となるものを明確に知っているのだということが知れた。

 ――ここだ――
 立ち止まったその場所は、どうみても単なる雪山の一角のようにしか見えない場所だった。正面の、雪で覆われた岩壁が、無表情でサトーを威圧している。
 ――ねえさまがな――

 ねえさまが、な。ずっと前に、ここのことを調べていたんだ。もう、本当にむかしのことになるが――
 そう言いながら、ゲート・オブ・ヘブンを握り締めるヒロは、ひどく小さな幼子のように感じた。ヒロの姉であるプラーナが、何故こんな山に興味を持ったのか。此処に何があるのか。これから何が起こり、それとプラーナと、ヒロとがどう結びつくのか。大体の想像が、なんとなくつきそうそうな気がしつつも、敢えて考えないように、そうか、とだけヒロに返した。

 ヒロの足元では、降り積もる雪が早くもその身を固め始めている。身体に触れることは無くも、次から次へと降り積もるそれは、静かながらも何かを急かしているかのようだった。少し背中を屈ませて、そんな足元の雪を見ていたヒロは、何らかの決心がついたのか、すっと背を伸ばし、岩壁に近づいた。そのまま、雪に覆われたそれに手を翳すと、小気味の良い音を立てて雪は溶け、辺りは一瞬水蒸気で包まれる。立ち込める蒸気が治まり、姿を現したものは鏡面のごとく平らかで、澄んだ氷の扉だった。

 前へ一歩踏み出すと、扉は轟音を立てながらも自然と開いた。中は洞穴に手を入れた部屋となっており、岩肌には氷がびっしりと敷き詰められ、氷の部屋、といった感じだった。吐息はただ白く、外のように風がないためそれが流されることはないものの、肌に刺さるような寒さが張り詰める。生命を否定する、という意味では内でも外でも大差無かった。これではまるで棺である。

 ――でも、ねえさまがここで眠ることにはならなかったんだ。此処ではねえさまの力が弱まって、とうさまを押さえることが難しくなってしまう。それに、魔族にとっては此処に来ることが出来ても、ひとをここまで来させることは難しい――。
 その背を見つめるサトーには、ヒロが今どんな顔をしているのか、見ることが出来なかった。ただ、その背中は何やらひどく小さく、頼りげなく感じた。手を伸ばし、強引にこちらを向かせることも出来たが、そうはしなかった。伸ばせなかったのではなく、伸ばさなかった。手を伸ばしこちらを向かせても、すっと逃げられてしまいそうな気がして、怖かったのである。

 そんなことをサトーが思う間に、ヒロは懐から小さな玉(ぎょく)を取り出し、サトーの方、即ち入り口を向いて外にある雪を掴み、それを覆った。ひょいっと宙に放り上げると、それは不自然にも宙に浮いたままくるくるとまわり、羽根が舞い落ちるかの如くゆっくりと降りてヒロの手に収まった。

 ――純度の高い玉と、ここの雪とを混ぜ合わせた。そして、私の力が混ざっている――
 ヒロがサトー見せたものは、雪の塊でなく透き通った氷の玉(たま)だった。僅かな光を受けて、それはきらきらと澄んだ輝きを見せていた。
 ――これが、ここの「鍵」となる。ある程度の時が経るまで、鍵はあっても意味を成さない。そういうふうに、するつもりだ――

 扉に手をかけ、軽く呪を唱える。こぅ、と「鍵」と似たような透き通った水色の光に、扉は一瞬包まれた。元が良いから、楽でいい。という、ヒロの苦笑じみた呟きが耳を打った。
 ――お前には、この鍵を隠して欲しい。場所はどこでも良い、お前に任せる。見つかり難ければ、見つかり難いほど良い――

 「それで、姫さんは眠りにつくのか?」
 サトーに向き直り、鍵を手渡そうとしたヒロの手が、ほんの少しだけ震えて止まった。だがそれも一瞬のことで、そうだ。という声と共に、再び鍵をサトーへ差し出す。
 サトーも、何も言わず、受け取るために手を伸ばした。冷たそうな印象を覚える鍵は、その実全く冷たくなく、寧ろ、暖かいくらいだった。
 そうして、手袋をつけたヒロの手は――その鍵よりもずっと、冷たく感じた。
 だから。

 思わず触れた、ヒロの手を掴んで自ら腕で抱きしめた。

 「サトー!?」
 手袋が冷たいのは、きっとこの空気を纏い、そして先ほど鍵の媒体となる雪を握り締めたせいだろう。そうでなければ、こんなにも、この女の身体が暖かい筈はあるまい。

 手を掴み、引き寄せ、抱きしめる。自分よりもずっと幼い少女は身体を強張らせた。恐らく驚きと、――若しかしたら嫌悪から。我ながら大人気ない、乱暴、最低だ――と思いながらも、抱きしめるその手を緩めることは出来なかった。今しかない。絶対に離せない。この一瞬を離してしまったら、きっと自分は一生を後悔してしまうだろう――。と、身体を強張らせたままの女を抱きしめたまま、ヒロ、と女の名を呼ぶ。

 女は身体をびくりと震わせ、重い沈黙が流れた。静かながらも、身を寄せ合った互いの身体には、激しい鼓動が聴こえていた。
 抱きしめているのに、こんなにも自分の直ぐ側にあるのに、相手の顔が見えない。気持ちが見えない。サトーは目を覆われたような錯覚を覚えた。もっともそれは、数年来感じていたものであったが――。

 「――――!!」
 それは、若しかしたら悲鳴だったのかも知れない。兎に角何らかの叫びであったことは確実だろう。ただ、それは声にならず、サトーには聴こえたのはヒロが大きく息を吸った音と――。
 ざん、と自分が雪に飛ばされた音のみだったが。
 くら、くらとしながら正面を見つめると、ヒロの紅い瞳が見える。平生気丈な魔王の娘は、今にも泣き出しそうな顔でサトーの方を見つめており、唇が、微かに震えた。それと同時に、轟音を立てながら扉は閉まり始める。
 「――ヒロっつ!!」
 慌てて駆け寄るが、雪に足を捕られて、思うように前に進めなかった。どうやらかなり遠くまで飛ばされたらしい。二人で敷いた道には、既に雪が降り積もり、サトーが再び其処を歩むことを堅く拒んだ。
 それでも強引に前に進み、閉じられた扉を強く叩く。ヒロ、ヒロ、と扉の向こうに立つであろう女の名を呼びながら。だが、扉は再びその腕を広げることはなく、ただ頑として立ち尽くすのみであった。

 それから果たして何度目であったか――。
 サトーは振り上げた拳を、再び上げることを止めた。ぼうっとしながら見ると、氷壁には赤黒い染みがこびりついている。見ると、サトーの手は凄惨なものとなっていた。
 夢中になり、寒さで痛覚が麻痺していたものだから、痛みを全く感じなかったのだ。暫くその手を見つめていたが、息を一つついて、のろのろと踵を返した。
 帰り道は、雪に覆われ、その冷たい御手はサトーの身体に纏わりつき、絡みつき、動く力をどんどん奪っていった。
 このまま、ここで死んでしまおうか――。

 足を捕られ、転び、雪に埋もれた、そんなサトーの思いを留めたのは、透明な「鍵」だった。
 血の滲んだ手に握り締められているのにも拘わらず、それは変わらず澄んだ色を湛えている。
 (何なら)
 (何なら、お前も登ったらどうだ?良い鍛錬になるぞ?そうすれば、妙に緩んだその精神も鍛えられるかも知れん。)
 (生憎、今はお姫様をお守りすることで手一杯なモンなんでね。姫さん?)
 くすくす、という笑い声。軽口の応酬。他愛無いやりとり。
 (だがあそこは、私の力の原点とも言える。あれに登ったことが、私に魔王軍の一人としての決意を与えたから――)

 サトーは空を見上げた。スペクトラルタワー。多くの勇者を生み出した、古よりの塔。
 ああ、そうだ。そこに行こう。とりとめも無く降り積もる雪と、それを生み出している灰色の空を見ながら、漠然と思った。天高く聳えるあの塔こそ、この高貴な魂が眠るのには相応しい――



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