▼こおりのきおく▼ 4 |
どぉん。という巨大な蜥蜴がその体躯を横たわらせ、辺りに舞った砂埃に、少しばかり咳き込んだ。額から零れ落ちる汗を拭い、荒れた息を整える。その場にへたり込んでしまいそうな己を叱咤し、どうにか壁際までその身を移動した。 とん、と壁に背をつけると、僅かばかりに膝が笑う自分に気がつく。情けない、と苦笑しながら一人ぐち、石で覆われた天井をぼうっと眺めた。 今、どれほど登ったことだろうか。少なくとも、50は越えた筈だ。 ――あんた、たったの一人で登るのかい?と、ここに上る前の村で、目を丸くした宿屋の女主人の顔を思い出す。冒険者ならば一度は上ると言われている塔を指してのその言葉に、何を不思議がるのかと問い返すと、昔と今とは随分と事情が違うのだと、溜息まじりの言葉が返って来た。 ここのところ、戦乱続きだったろ?血の気の多い連中が塔を利用してね。今、塔の中は特に凶暴な魔物たちでうじゃうじゃなのさ。それに、数年前にあった塔のブーム以来、どうしたことか上階への簡単なルートが潰れちまっているみたいでね、文字通り一階ずつ、自分の足で登らなきゃならなくなっちまった。 危険が前とは段違いで、まるで、誰かが上への侵入を拒むかのようだ。と女は言った。 ――だから、悪いことは言わないからさ――。 「そう言われて、はいそうですかと引き返すような、なまっちょろい気持ちで来ているわけでもねぇんだ。こっちもよ――。」 口角を軽く吊り上げ、手を壁につきながらゆっくりと移動する。このまま、此処にいれば血の臭いを元に他の魔物を呼ぶことになる。それは、御免被りたかった。とはいえ、先に進もうにも体力は限界に近い。次また魔物に――それも、魔法攻撃しか効かない魔物に出くわしたりしたら――逃げ切ることが出来るかは、甚だ怪しい。 まだここで倒れるわけには行かなかった。このような低い場が、想い人の玉座だとは、とうてい思えなかった。 彼人(かのひと)にはもっと上が――そう思う以上、限界まで先に進むしかなかった。そうして、胸にそうした責務を負った以上、それを投げ出すわけにも行かず、安全に休める場を見つけては、少しずつその身体を休めながら、前へ前へと進んでいた。 ここに来る途中で、丁度身を隠せるようなところがあった筈だから、そこで……。と、重い身体を引き摺りながらその身を廻廊へ表わした瞬間、自分の元へと駆け寄ってくる重い地響きが響き渡った。 音の方へ頭を向ける前に上方へと飛び上がる。くるりと宙を回転しながら自分を見失ったものの方へ目をやると、それは鳥のような両足に円形の毛で覆われたかの上半身をもっていた。手や頭と呼べるものは無く、毛の中央にぎょろりとした巨大な目玉が一つ、ついている。全身の大きさは丁度熊と同じくらいであろうか。 恐らく始めて見る種類であろう魔物に、サトーは目を丸くしながら着地すると、獲物を取り逃がした事を知った魔物は自分の方へとくるぅり、と向き直った。かつ、かつ、と爪尖った足で石畳を掻く。 来る。と思った瞬間に懐に仕舞っていたクナイを取り出し、再度サトーは宙を舞った。天井近く飛び上がった時にクナイを突き刺し、身体を固定し、やり過ごす。 再度獲物を逃したと知った魔物は、その丸い眼球をサトーの方へと向けて、じっと見つめた。 光線出すとか、言わないでくれよ。と小さな声で呟いたのが聞こえたのか、それとも聞こえていないのか知れぬ様子で天井にぶら下がるサトーをそれは見上げ――毛を、ざわり、と動かした。 背中に冷たいものを感じ、サトーはクナイを手放した。何か矢を射るような音が聞こえる。――と、同時に手に激痛が走った。冗談じゃねぇ!と悪態を吐く。 地に降り立つと同時に魔物は後ろ足を蹴る。ぞっと胆が冷える感覚を覚えながらも、流石に今度は逃れることは適わぬと判断し、数本クナイを投げつける。ひゅん、という音と共にクナイはその魔物の目に突き刺さり、ぴゅう、と血飛沫を噴き上げた。一体どこから声を上げているのか、それはきゅぃいいいいい!という甲高い声を上げたかと思うと、怪我を負っているにも関らず自分の方へと突進して来た。 「悪ィがまだ餌になってやるつもりはねぇんでな!」 言いながら飛び上がり、魔物の背に降り立つと逃れるために廻廊を駆け出す。魔物は目だけでもなく臭いからも関知しているのか、あの甲高い声を上げながらサトーの手に突き刺した幾重もの針を放射する。音を聞いた瞬間に飛び上がり、壁を蹴り、針をやり過ごす。 大丈夫、これならば逃れきれる――。そう思ったところで着地した拍子に、かくん。と膝が落ちた。 「ぁあ――?」 くらりと眩暈がする。どうしたのかと怪訝に思うと同時に、まさかと警報のように脳裡で光るものがあった。針が、針に、毒が、と。 どすん、どすん。と勝利を確信したのか、今までと違った足取りで魔物はサトーに近寄って来る。最早潰れたしまった血の滴り落ちる目でサトーの方を見つめ――ざわり、と身体を震わせる。 嘘だろ。というサトーの呟きは、ぱぁん、という廻廊に響き渡った音に、飲まれていった。 |
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