▼こおりのきおく▼
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 石造りの廻廊に血の臭いが充満する。見る間に床を赤い色で汚していった。射撃音とともに横薙ぎに身体を斬りつける音が響き、どくどくと狭い廊下に血が流れる。嘘だろ。という呟きに、本当だ。という幾分笑いを含んだ声が返って来る。
 「俺は夢でも見てるのかよ……。チク!ザキフォン!」
 どすん、と魔物の巨体が崩れ落ちる。影から見知った者が姿を現す。
 「夢を見るには、ちょっと早いんじゃないかい?サトー。」
 丸眼鏡をひとさし指であげながら、白衣の男は笑って応えた。



 「はい。これでいい。多分、あの針には相手を痺れさせる毒が仕込んであったんだろうね。時間が経てば痺れもとれるよ。」
 ザキフォンに肩を支えられ、どうにか休める場所にまで辿りついたサトーは、そこでチクから治療を受けた。随分と長い間会っていなかったが、怪我への処置は変わらず見事なものだった。そういえば、治療役は専らこいつの役目だったなと、包帯巻かれた自分の手を見る。

 「――でも、お前らどうして此処が――。」
 「分かった、か?」
 チクの言葉に軽く頷く。長年離れていた仲間が、自分の危機に丁度良く駆けつける。戯曲では良くある展開だが、幾らなんでも都合が良すぎる。まさか発信機でも仕込んでたのではあるまいな、と苦笑まじりに疑念した。
 「戦が終わって、ずっとサトーを探してた。いや、正確には、終わってすぐ、じゃないんだけどさ……。」
 苦笑しながら軽く頭を掻く、その手に纏った白手袋が目に付いた。

 「お前、そりゃあ……。」
 自分の問いに、ああ。とチクは気付き、そっと左手の手袋を取ってみせる。五指が失われている事は無かったが、手の甲から関節までにかけて、焼け爛れたような痕があった。不調法でね。とチクはそれを見せながら、苦笑する。
 「……まぁ、色々皆あるだろうって思ったから、会いに行くのもどうかな、って少し思ったんだけどさ。」
 自分の方がある程度片付いて、また旅にでも出ようか。と思ったとき、ふと皆の事を思い出し、懐かしくなったのだとチクは答えた。会えずとも良い。元気であればそれで良い。せめてそれだけでも知りたくなったのだと。
 「サトーは姫さんと一緒だろうから、直ぐ見つかると思った。サトー一人だと見つけられる自信は薄かったけれど、姫さんは……まぁ目立つからね。場所も大体分かっているから、手始めにザキフォンを探すことにしたんだ。」
 言って、ちらりと隣に座したザキフォンを見る。俺は、と懐かしい、低めの声が空気に揺れる。

 「――友の所に居て――。丁度チクと同じように色々と片付き、一人旅を始めた頃だった。」
 そんな時にかつての仲間と再会し、大層驚いたらしい。探知機でも着けられているのだろうかと思ったという言葉に、思わず吹き出す。
 「職業病とでも言えばいいのかな。情報収集だけはずっと行っていたからね。なんとなく分かった。ナハリの方を探したのはあくまで推測だったけど……。」
 大切な物を隠す場所は、限られているからね。というチクの言葉に、ザキフォンは静かに眼を閉じた。そうして暫くして、開き、言葉を続ける。
 「――チクに会い。自然、二人で旅をすることになった。目的というものは俺も取り立てて無かったから、お前に会いに行くことにした。」

 「そうして、ゴルデンに行こうとしたところで――姫さんが出奔した、という噂を耳にしたって事さ――。」



 「それからは少し大変だった。いきなり情報が途絶えたからね。普段なら情報網にかする筈なのに、余程見つかるのがまずいのか、情報網にかすりもしない。仕方がないから、どこそこで見かけたという情報は一切無い、推測のみで探すしかなくなった。でもまぁ、これでも攻撃主体のお姫様のもとで軍師をしていただけはあったのかな。
 ――――港で、二人を乗せたという船を見つけられた。」
 ぴくり、と肩を震わす。チクはほんの少し困ったような顔で、サトーを見ていた。
 「そのまま追いかけようか、どうしようか迷った。そうして、ザキフォンと、姫さんなら、サトーならどうするだろうか話をした。聞けば、二人が港を出たのは二週間前だと言う。そこで追いかけても入れ違いになるだけじゃないかと思った。考えたんだ。ふたりならどうするだろうって、思い出して、考えたんだ。」
 チクは眉を寄せ、それでも口元にだけは笑みを浮かべて、笑った。今にも泣き出しそうな、顔だった。

 「髪が伸びたな。」
 唐突に、ザキフォンの声が掛かった。一瞬虚をとられてから我に返り、ああ。と頷き、腰の辺りまで伸びた結わえてある髪束を手に取る。
 「切るのが面倒でな。お前だって、髪とか髭とか伸ばしてるじゃねぇか。」
 切り返した言葉に、似合うだろう?という笑いを含んだ声が返った。確かに、良く似合っていた。
 元々三人のうちで一番体格が秀でていた男だ。今ではそれに聖騎士然とした落ち着きと貫禄が備わっている。その重圧剣を手にして立てば、彫刻家などが彫るような騎士像の如く、さぞかし似合うことだろう。
 チクも、変わったよな。と語りかける。うん。とチクは微かに頷く。
 「前髪が薄くなった。」
 「うるさいなっつ!気にしているんだから言うなよっ!!そういうサトーだっていくらか白髪が混じって来てるじゃないかッツ!」
 悪ィ、悪ィ。と返しながら、くつくつと笑う。本当に皆、変わったものだとサトーは思った。

 昔は二人と違ってサポートを主としていたせいか、随分と華奢な印象を抱いたものだが、今ではそうした印象は覚えない。声も、高めであると思ったものだが、抑揚がずっと落ち着いたものとなったのか、強い自信を持って「其処に居るのだ」という安定性を感じさせる。きょろきょろとかつては忙しく動いていた眼は、声と同じく随分と静かなものとなった。
 昔と変わらず白衣を身に着けているが、裾が破けていたり、ネクタイが解けていたりと、やや、だらしない。

 皆、変わったものだな。と、そう思った。だから、そう呟くと。そうだな、とザキフォンが頷いた。
 「皆、変わった。歳をとったのだ。ひとは、変わるものだ。」
 言葉が、しんとした広間に伝わった。ぱちぱちと、薪が小さな火の粉を上げて、鳴る。
 サトー。と、チクが小さく名前を呼んだ。彼が何を言おうとしているのか、何となく想像がいった。そうして、それはその通りのものだった。

 「サトー。姫さんは……どうしたんだい?」

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