▼こおりのきおく▼
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 問い掛けたチクの声は、幾分緊張を孕んだものだった。質問をした本人自身、触れて良いものかという気持ちもあるのだろう。そうした仲間の機微が汲み取れる分、如何様にしても苦笑がこぼれる。恋に涙する小娘ほどやわではないが、迷わず全てを語れるほど、半端な想いなものでもなかった。
 さて、何と言ったものかと、考えている折に、しゅんしゅんと薪に掛けた薬缶が沸いた。
 「――まぁ、色々あっただろうし、無理に話さなくても良いよ。」
 そういうチクは、それでも幾分淋しそうだった。野次馬根性などではなく、自分とヒロのことを気に掛け、力になれるものならなりたいと思っているのだ。例え、それが既に終わってしまったことであっても、まだ自分に出来ることはないのかと考えている。
 ああ、そういえばこいつは軍が危機に瀕した折も、軍を、ヒロを、皆を守るために東奔西走した奴だったな。と、そんなことを思い出した。

 チクはリュックからカップを出し、沸いた湯でそれらを軽く濯ぐと、こげ茶色の粉末を入れ、湯を注ぐ。波に巻き込まれるかのように、くるくるとそれらは回りながら、ゆっくりとカップの底に沈んで行った。
 冒険者たちが良く飲む飲み物で、独特の苦味や酸味がある飲み物だった。主に茶や紅茶を好むサトーやザキフォンにとって、この飲み物は一種特殊だったが、茶と比べて始末や淹れるのが楽だということから、飲み慣れているチクから勧められ、慣れるようになったものだ。とりたてて美味いとも思わないが、茶と同じように眠気を払う効果がある上に、暖かい飲み物をこうした旅の合間でも嗜めることから、次第に珍重するようになったものだ。
 差し出されたカップを受け取り、こくりと飲み込む。舌に茶葉とは異なる苦味と、温もりが広がってゆく。

 「フラれた。」
 はぁ、と溜息と共に吐き出した言葉に、え。という声が続いた。目を丸くする二人に苦笑をしながら、事のあらましを二人に語った。語る上で、恥じらいも、約束を破るという気持ちもなかった。彼らは、仲間だった。

 「あー、なんだ。やっぱり若い娘には俺の良さって言うのが分からねェのかねェ。」
 こぉんなに、一途に想っていたのになぁ。と大仰に頭を振っておどけてみせ、顔には笑顔を浮かべてみせる。
 二人は神妙な面持ちで話を聞いていた。
 おどけて怒るわけでもない、共におどけるわけでもない、同情の眼差しを向けるわけでもない。ただ、ひどくひどく優しい目を向けながら、ザキフォンが、
 「そうか。」
 とだけ言葉を掛けたので、目を伏せた。口の端を引き締める。情けない、と己を叱咤する。肩が、震えてしまいそうだった。

 「でも、それって変だよ。」
 話を聞いてから、何やらずっと考えこんでいるようだったチクが声を発する。目線のみで何が、と問い掛けると、彼は少しだけ俯いて、語り出した。
 「だって、変だよ。
 カーシャはサトーも行ったから、分かっているかも知れないけれど、あそこは豪雪地帯だ。雪が、次から次へと休む間もなく降り積もる。どうして姫さんは、『鍵』をそこに埋めてしまわなかったんだろう。
 カーシャに行くのが初めてだというならば、考えつかなかったということも推測できる。でも、サトーの話からすると、姫さんはその場所を熟知していた。そりゃあ、誰かに見つかってしまう可能性もあるけれど、雪中に埋もれた『鍵』を見つけることは、大海に落ちた真珠を見つけるのと同じようなものだと思うよ。
 ――どうして姫さんは、サトーに『鍵』を渡したのかな。」


 溶けた雪は水となり、その下にある雪に触れて固まり、それを転ばぬようにゆっくりと、踏みしめて歩く。自然、二人の歩いたところから、一本の道が敷かれていた。その道は真っ直ぐと敷かれ、前を歩むものが目的となるものを明確に知っているのだということが知れた。――――慌てて駆け寄るが、雪に足を捕られて、思うように前に進めなかった。どうやらかなり遠くまで飛ばされたらしい。二人で敷いた道には、既に雪が降り積もり、自分が再び其処を歩むことを堅く拒んだ。

 「きっと――」

 ヒロの紅い瞳が見える。平生気丈な魔王の娘は、今にも泣き出しそうな顔で自分の方を見つめており、唇が、微かに震えた。それと同時に、轟音を立てながら扉は閉まり始める。

 それは、若しかしたら悲鳴だったのかも知れない。兎に角何らかの叫びであったことは確実だろう。

 ああ、あの時彼女は何と言ったのだろう。何と叫んだのだろう。悲哀に満ちた叫びだった。哀しいまでの決断をした目だった。痛いまでの悲しみを、必死に飲み込むような唇だった。

 「姫さんは――」

 分からなかった。否、分かっていたが、心のどこかで認めることなど出来なかったのだ。ヒトの生きる年月は、魔族のそれとは違い限られている。ヒトには、老いがある。皆、変わる。歳をとるのだ。ひとは、変わるものだ。
 分かっていた。分かっていたのだ、そんなこと。ただ、何時もと変わらぬように皆と話し、何時もと変わらぬように彼女の我儘を聞く。我儘に怒って喧嘩する。また、自然として仲直りをする。そんな、変わらぬ日々を送っているなかで、どうしてその果てを見つめることが出来るだろうか?
 だが、きっと彼女は見つめていたのだ。そんな、サトーが夢とも思えるような幸福な時を送る間、道の果てに在る暗闇を見つめて、そこに付き纏う不安を始終独りで感じていたのだ。
 涙が、込み上げて来た。
 自分は何と愚かなことだろう。何と愚かな生き物だろう。それでも、それでもヒロが自分に対し「鍵」を託したのは――。

 「側に居たかったんだ。ぎりぎりまで。
 そうして、ほんの少しでも――サトーとの繋がりを、保っていたかったんだ。」

 だから、彼女は自分に「鍵」を託したのだと、自分の選んだ場所に、分身とも言える「鍵」をおいて置きたかったのだと、チクは語った。
 カップにちゃぷちゃぷと揺らめく暗い波を見つめる。強く握り締めたカップに、ぽちゃん、と小さな雫が落ちた。
 暗がりの中語りかける者は誰も居らず、ただ、時折聞こえる嗚咽の音と火の爆ぜる音だけが、塔の広間に響いていた。

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