永望





 「…姫?」
 あれからしばらくたって、蓮撃が再び様子を見にきた。
 障子を音も無く開けて見れば。
 「………」
 ちらちらと、油にさした火が部屋を薄ぼんやりとてらしている。そんなどこか暖かい光の中、鈴魚は横たわり、シローが寝ている布団に頭を預けて眠ってしまっていた。
 「………」
 ふ、と蓮撃が小さく笑みを作る。
 それから、静かに起こさぬよう、細心の注意を払って小さな身体を抱きあげる。豊かな髪がこぼれる。
今日はいろいろな事があって疲れたのであろう。そして、心配していたシローも怪我を負ったものの無事に戻ってきた安堵したせいもある。深く眠っているようだ。
シローの看病をするといっていたものの、このままでは風邪を引いてしまう。蓮撃はそのまま、鈴魚の部屋へと連れていった。


 「朝になったらきっと怒鳴りこんでくるであろうが…まぁ、しょうがない」
 ぽつりとひとりごちる。
看病していたのに勝手に部屋に連れてかえられてしまって、起こせばよかったではないかと、きっとあの姫君は目を覚ませばいうだろう。
だが蓮撃としては、眠ってくれたのはありがたかった。幾ら鈴魚があの少年の事を大事に思っていようとも、無理をして体調をくずされてしまっては元も子もない。
 それに。
 「………」
 今日は天気がいい。夜も雲もなく、星と月がよくみえる。まだ満月には遠い。あたりはしんとした青白い空間が広がっている。静かで、心が落ちつく。
 「………」
 蓮撃は一つ、息を吐いた。


 シローが寝ている部屋に戻ってきてみれば、額に乗せてあった布が、寝返りをしたのか落ちていた。蓮撃は座りこみ、無骨な手で布を水に浸してしぼり、少年の額にのせてやった。
すると。
 「…蓮撃様」
 シローが不意に、眠りから覚めるように瞼をあげて、名を呼んだ。
 「…なんじゃ。起きておったのか」
 「…はい。でも、姫様が眠っておられたので…」
 こんな所で寝ては風邪を引いてしまうとも思ったのだが、気持ち良さそうに寝ている鈴魚を起こすには忍びなかった。どうしようかあぐねているうちに、蓮撃がきたので、おもわず寝たふりをしてしまったのだ。
 「姫は今しがた部屋に連れていった」
 「…はい。すみません」
 片方は包帯にまかれ、もう片方の目も、なんだか瞼が腫れ上がっていてうまくあけれない。それでも、傍らにいる蓮撃をみあげる。
 「…今日は、申し訳ありませんでした」
 「………」
 「…僕が最初から姫と一緒にいて、止めていればこんな事にならなかったかもしれなかったのに…」
 あんな遠くの山まで一人で。何とかそれでも間に合ったからよかったものの。下手をすればとんでもない事になっていた。
 「…僕が、もう少ししっかりしていれば…姫様を…」
 「自惚れるな」
 ぎゅ、と布団を握り締めるシローに、蓮撃が静かに低い声でいいはなった。
 「………」
 怒鳴る訳では無いのに、その威圧すら込められた声に、びくりとシローは身をすくませる。
 「お前一人で姫を守るつもりでもいるのか。まだまだ一人前にもなれぬ半人前が」
 「………申し訳ありません」
 シローはそんなつもりで言った訳ではないのだが、その言葉に酷く恐縮して顔を伏せて謝った。
 「………」
 そんな、まるで小さい子犬が振るえているような姿に蓮撃はまた一つ、息を吐いた。
 「一人ですべての責任が負えると思うな。己の行ないを悔いるのはいいが、己一人ですべてを為す事などお前にはまだ無理だ」
 「はい…」
細くておとなしくて、争い事が嫌いな少年。いつも鈴魚につきあわされて振り回されている。こんなもので君主を守る忍びがつとまるのかとすら思う。
だけれど、几帳面で真面目で真っ直ぐで。
 「己と敵の力の差がわからない者は、未熟以前に戦うに値せぬ。それでは負けてしまうのが目に見えているからだ」
 蓮撃はただ静かに、淡々と言葉を続ける。だがそれは、シローの心に深く響く。
 「まずは己の力量を見極めよ。そしてそこから、己自身が出来うる最大の事を為せ。命を賭して我等が主を守るのは立派だが、力およばずに判断を見誤って、己も、まして姫も死なせるような事があっては絶対にならぬ。それすらも出来ぬのであれば忍としてのお前の存在など」
 「………」
 「ない」
 酷く重い言葉にずきり、と胸の内が痛む。
 確かにそうなのだ。
 力がないのに守ろうとして、己が守るべき人まで巻きこんでしまったとしたら。
そう想像してシローは歯を食いしばり、こみ上げてくる、ぞっとするほどの恐怖を堪える。
己が大切に思っている人を失うと言う事の恐怖。
 かたく布団を握る指先が白くなっている。
 蓮撃は、また一つ溜め息をついた。
 「…まぁそれでも、今回はよくやったという方か。姫を先に逃がしたのはお前にしては良い判断だ。もし、お前がそのまま姫を背後に守り戦ったとしたならば、姫は無事には戻ってはこれなかっただろう…」
 「……」
 「お前がお前なりに姫を思うのならば、守りたいと思うのならば。…もっと強くなるがいい。体だけではなく、心もだ」
 「…はい…っ」
 小さく低く、うなるようなかすれた声。それでも、強い想いを秘めた返事。
力ない己の不甲斐なさに、眼の奥が熱くなってしまったが、それでも堪えてシローは目をきつく瞑る。
 「……」
 そんな少年をみて思い出す。己が守るべき者の為にがむしゃらに生きていたあの男を。
 真面目で、真っ直ぐで。大切な者を守ろうとする意志。
 ─────己が知るあの男に似ている。
 傍目には全然似ていないのに、心の有り様がとてもあの男に。
 そんな風に思い出して、蓮撃はふるりと一度、頭をふった。
 「…わしは部屋へ戻る。お前も今のうちに休むがいい。」
 「はい…」
 そう言って、蓮撃は立ちあがって障子を開ける。静謐で穏やかな月の光が降り注ぐ。
その中の、蓮撃の後ろ姿をシローはぼんやりとみた。歳老いてもなお衰えないその力。逞しい、広い背中。己を軽々とかかえあげる太い腕。
 そこまで考えた時、ふと、シローの脳裏に忘れ掛けていた、否、忘れようとしていた疑問が生じた。
 「…蓮撃様」
 「なんじゃ」
 「…一つ、きいてもよろしいでしょうか」
 やはりそれは聞いてはいけない事なのかもしれない。だけれどそれは、幼い時からずっと疑問だった事。しかし近年では忙しさも手伝ってほとんど意識の深海に沈んでいた。
 幼い時、一度だけ聞いた事があるそれ。
 「…僕の父親は、…両親はどんな人達だったんでしょうか…?」
 


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